熊野古道 小辺路を歩く【前編】高野山から出店跡まで

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こんにちは。からあげです。

 

前回は町石道を通って高野山まで歩き、壇上伽藍(だんじょうがらん)と大師御廟(たいしごりょう)を参拝するまでを書いた。
今回はその続きの高野山から熊野古道 小辺路(こへち)を歩いて熊野本宮大社までの前編をお届けしよう。

 

熊野古道 小辺路を歩く 2018年5月

コース概略

高野山~薄(すすき)峠~高野龍神スカイライン~大股バス停~伯母子(おばこ)峠~三浦口バス停~三浦峠~出店跡まで

右下の「山行記録のページへ」をクリックすると、詳細なルートマップを見ることができる。

 

高野山から大滝集落過ぎまで

高野山宿坊協会前の交差点

小辺路への入り口はココ。宿坊に泊まってゆっくりしたいところだが、今回は精神修行を兼ねた歩き旅でもある。後ろ髪引かれる思いで高野山をあとにする。(いつも丸坊主にしているため、引かれるような髪はない。)

メイン通りから中に入ったところにあるヤマザキデイリーストア。隠れたお店。
観光客で賑わうファミリーマートに比べて、かなり閑散としている。
高野山をよく知る者か地元の人間が来る店なのだろう。

補給はファミリーマートで済ませているため、店の外観だけを眺めて先に進む。

小辺路へは、デイリーストア手前を右に曲がり金剛三昧(こんごうさんまい)院方面に進む。

金剛三昧院手前で再び右に曲がる。

曲がり角には標識あり。ここから先は、道なりに歩くのみ。

道はいつしか未舗装になり、さらに奥へ奥へと続いている。

ろくろ峠に到着

道路が交差するところがろくろ峠となっていた。開けていて開放感がある。
なかなか良さそうなキャンプ地だった。

ろくろ峠付近からの景色

スッキリとした青空が広がっている。現在、山深い紀伊山地の真っ只中にいる。

一旦小辺路に入ってしまえば、ところどころにこうした標識があって道に迷うことはない。
高野山からの入り口が少し分かりにくいだけ。

薄(すすき)峠付近をゆく。
4時半を過ぎ、次第に周囲は暗くなってきた。落ち葉を踏みしめる自分の足音しか聞こえない。
静かな道を歩いていると、意識が飛びそうになる。

一旦道路に出て集落まで道路を歩く。
山奥の細い道で地元の車しか通らなくて非常に静か。

しばらく舗装路を歩いて大滝集落に辿り着いた。
民家の敷地内に公衆トイレがあって使用できるようになっていた。

集落内の広場に東屋あり。
ピクニックテーブルも設置されて休憩にはピッタリだった。

すでに午後5時を過ぎていたため、ここで泊まろうかとしばらく悩む。
しかし、ここは集落内の人目があるところで、落ち着かないように思えた。しばらく休憩して先に進むことにした。水は高野山でたっぷりと汲んできたため、山中泊でも可能だった。

集落を抜けると緩やかな尾根上に道が続いていて、ちょうど幅が広くなっているところがあった。これより先に進むと高野龍神スカイラインに出てしまう。ここが今日のピッタリのねぐらだろう。瞬時にそう思えた。車が入って来れないのがポイントが高い。しかも地面はほどほどに柔らかで平らになっている。

荷物を下ろして自作したタープを初めて設営してみた。すると、周囲の景色に溶け込んで全く違和感はなし。手間暇掛けて作った甲斐があったとしみじみ思った。

 

自分で言うのもなんだけど、惚れ惚れとするようなしっかりした作りだった。
うむ、悪くない。カーキ色なのもいい。道のない森の中に張っていたら、まず誰かに見つかることはないだろう。

タープはなかなか開放感があっていい。虫と風と寒ささえなければ、快適に過ごすことができる。
シートを敷いてゴロンと横になっただけで、タープの虜になってしまった。

この日は風もなく穏やかで、静かな一夜を過ごすことができた。前日は続けざまに訪れたカップルに安らかな眠りを妨げられてしまった。その分を取り返すかのように熟睡したのだった。

 

キャンプ地から大股バス停まで

昨晩は途中で冷え込んできたため、ポンチョを巻いて眠った。途中で寝袋が湿ってきたが、寒かったのでポンチョを巻いたままにした。

翌日は5時に起床し活動を始める。まずはタープを撤去して天井を取っ払う。ふーう、素晴らしい開放感だ!
シートは敷いたままの状態でスペシャルラーメンを作って食べた。

荷物をまとめて出発してすぐに、高野龍神スカイラインと合流した。
手前には平らな広場があってキャンプ地には良さそうだった。

だだし、トイレ・水場はなし。

スカイラインに出ると、そのまま道路脇を20分ほど歩く。
朝っぱらから馬鹿みたいにぶっ飛ばしている車やオートバイが何台か通り過ぎていった。

道路歩きが終わってようやく小辺路に復帰することができた。やはり舗装道路は人間が歩くところじゃない。

入り口には大きな標識が設置してあって、注意力のないおっさんでも見逃して通り過ぎることはない。

紀伊山地の奥へ奥へと進んでゆく。

新緑の青々とした葉っぱがエネルギーに満ち溢れていた。おっさんはそんなエネルギーのおすそ分けを貰って朝から元気いっぱいだった。

ようやくスカイラインとおさらば出来たと思ったら、今度は林道と合流してしばらく道路歩きとなった。

林道タイノ原線

立派な記念碑が建立されていた。

その林道の途中に東屋あり。林道の交通量はほとんどなくて宿泊場所としては悪くない。
ただし、トイレと水場はなし。

東屋の下に椅子とテーブルあり。
しばらくここで休んだ。

やうやく林道と別れを告げて小辺路に復帰する。

まっすぐはただの遊歩道、趣のある左手の道を進む。

やっぱり熊野古道はこうでなくちゃ!

ご機嫌で木漏れ日の中を歩いてゆく。

再び道路に出て下りて来たのは谷底にある大股バス停。

山奥の集落の入り口にあるバス停だった。トイレの前に3台分の駐車スペースがある。

大股バス停前のトイレ

トイレの洗面所で水を汲むことは可能。(だだし飲用できるかは不明。)
ペットボトルに汲ませて貰った。

バスは一日1往復で土日祝日と年末年始は運休。
地元の人向けのバスで全く使えない。

ないよりマシくらいに思っておいた方がいい。

 

大股バス停から伯母子峠まで

橋を渡ると、大股の集落がある。

標識に従って集落内の細い道を登ってゆく。

さらに奥へ奥へと登ってゆく。
道幅は狭くて非常に急。ポールを持ってて良かったという瞬間だった。

森の中に入るところで振り返ると、大股集落全体を見下ろすことができた。
ひっそりと身を寄せ合うようにして住宅が立ち並んでいる。

そして道は森の中へと続く。

ここらへんは歩く人が少ないためか、地面が柔らかで石や枝がたくさん転がっていた。おいしい部分だけ歩く人が多いのだろう。

萱小屋(かやごや)跡

野迫川村史では、「萱小屋にもかつて数戸の茶屋があったが、現在は一戸だけ残っている」とあり、昭和61年当時の模様を記した報告書によると、「萱小屋は2棟が残る廃屋で、張り出した岡の平坦地にある。昔は茶店があったようだ。田園の跡らしいところもある。裏手に墓地があるが墓石がない。」と無住になったことが記されている。地元古老の話では、往時5軒の戸数があったが、3軒が火事で焼失。最後に残った家は、30年くらい前まで居住していたそうである。その当時は主屋、牛小屋、薪小屋、納屋などがあり、田の面積は約4反、他に畑もあったという。

平成14年12月19日史跡指定
平成27年11月11日建設
野迫川村

集落から少し登ったところに、立派な小屋が建てられていた。全く予想していなかっただけに、小屋を見た時は馬鹿みたいにはしゃいだ。
早速、中を覗いてみることにした。

小屋内部のようす

中央にはレンガで囲って金網が載せてある囲炉裏のようなものがある。

壁には大きな窓が付けられていて、中は非常に明るくて雰囲気がいい。

囲炉裏の隣には薪ストーブが設置されている。

ベッド兼ベンチが2つあり、大柄な人間でも横になれる広さがある。

小屋の外にある水場

近くの沢から引いてくれている。
水は冷たくて美味しかった。

東屋の下にはよく乾燥した薪が積まれている。

この小屋はトイレがないくらいで、他は全てが揃っている。
次回歩くことがあったら、是非この小屋に泊まりたい。そう思えるほど快適な小屋だった。

天気が素晴らしくよくて、新緑のトンネルの中を気持ちよく歩けた。
GWが過ぎた時期で人が少なく、しかも天気が良くて絶好のハイキング日和だった。

伯母子岳(おばこだけ)に向かって登っているところ。

寄り道をして伯母子岳に登ってゆくことにした。山頂手前の最後の登り。

伯母子岳山頂(1344m)

登ったあとで知ったのだが、なんと200名山に選ばれていた。山頂にいたおばちゃんらが話しているのを聞いて初めて知った。そのおばちゃん達も登るまで知らなかったらしい。なんだか儲けた気分だった。

山頂周辺は背丈の低い草しか生えておらず非常に見晴らしが良い。

伯母子岳山頂からの景色

緑豊かな紀伊山地の景色も捨てがたい。

伯母子岳山頂のようす

なぜか、山頂の付近だけ草しか生えていない不思議な山頂。わざわざここだけ伐採したとも思えない。
この日、平日だというのに、結構な登山者がいた。

伯母子岳から峠に向かって降りる。

急な下り坂で慎重に下っていった。

伯母子峠

トイレと無人の避難小屋あり。

手前がトイレで、なんとバイオトイレ。
屋根に降った雨水を樋で導いてポリタンクに溜めていた。

奥の建物が避難小屋。南京錠で施錠されていて使用不可だった。

 

伯母子峠から船渡橋まで

伯母子峠からの下りの沢で、ペットボトルに水を汲む。
汲める時にこまめに汲んでおく。

そう、おっさんは心配症なのだ!しかも途中で水が飲めないと思うと、余計に水が飲みたくなってくる質。

本当に気持ち良い道。

周囲はマイナスイオンで満ち溢れている。

お昼前になって上西家跡に到着!

昔、旅籠があった場所で休憩にはピッタリの場所だった。伯母子峠をスルーしてきて良かった。ここは人気が少なくて静かだった。

ふかふかの苔の上にシートを広げて昼休みにする。
たっぷりと日差しが降り注いで、夜の冷えが嘘のようだった。
先はまだまだ長いので、ゆっくり休憩した。

ちょっと横になってみたが、あまりの気持ちよさに夕方まで寝てしまいそうになった。
途中で危険を感じて起きることにした。

石垣の近くに大きな切り株が2つもあった。
どちらも伐採されてかなりの年月が経っているようす。

杉の大木

かなりの年数が経っているようす。ひときわ立派な木だった。
屋敷林として植えられたものか。

杉の間を縫うように続く道

よそ見していると、立木に激突してしまいそうだった。

水ヶ元(茶屋跡)

熊野案内記には、「うえにしより水が本へ半里、家あり。弘法の封じ水あり、故に水が本と云う」と記されており、この水を飲むと「心能ならん、恩ならん、命延ならん、恩を知ならん」と立て札に書かれていた。

このところに老女が一人住んでいた。しかし、その姿や形は異様で頭髪は赤や白色が混じってたいそう乱れ、顔は青黒く大きなシワがあり、目は大きく光って歯は白く、その姿を見た人は恐怖を覚えた。年を尋ねると60歳ともいい、またある人には70とも80とも恐ろしい声で答えた。人のうわさ話で作られた山姥というものはこのようなものであったのだろう。

十津川村教育委員会

少し広めの広場となっていて水場もあり、キャンプ地として良好な場所だった。

 

茶屋跡の広場には小さなお地蔵さんが祀られている。

なんと湧き水が出ている。冷たくて美味しい。

しばらくゆくと石畳の道が現れた。

古い時代を感じさせる。

太平坂大と彫られたお地蔵さま。

道標として設置されたようだ。

山を下りて谷あいの集落に出たところ。
山奥にあるひっそりとした集落であまり人気はない。

バスの時刻表を見ると、これまた土日祝日運休ばかりだった。

神納川沿いの県道733号線を歩く。
曲がりくねった道で全然先を見通せない。

集落内にある公衆トイレ

民家の敷地内に建てられている。ここが休憩ポイント。

民家の車庫の壁に公衆電話が設置されている。

フタを開けて電話機を確認すると、硬化専用のものだった。

おそらくこの集落周辺は圏外。手持ちの電話は使用できない。

公衆トイレ

キレイに掃除されていて清潔そのもの。

トイレの中の洗面所の蛇口で水を汲むことが可能。

しばらく県道に沿ってあるく。本当に人気がなくて、全く人の姿を見なかった。いったいどこに行ってしまったんだろう?

昔なつかしいお店

閉店してからかなりの年月が経っているらしくて、キャンバス地のひさしがボロボロになっている。

南朝史跡 腰抜田

腰抜田(こしぬけた)

南北朝の頃、五百瀬を通ろうとした大塔宮護良親王は、五百瀬の荘司に行く手を遮られ、やむなく錦の御旗を渡し通行を許された。
遅れてきた宮の家来、村上義光は大いに怒り、荘司の家来を水田に投げ飛ばし、御旗を奪い返す。その時、家来が腰を抜かしたので、その田を腰抜田というようになったが、明治の大水害で埋没し、今は川底に眠っている。

立て看板より

 

なんとも面白い謂われを持つ史跡。名前が面白過ぎる!そんな田んぼも、水害で流されてどこか分からなくなってしまった。

石垣のところどころに置かれていたミツバチの樽に混じって食パンマンが置かれている。
アンパンマンではなく脇役の食パンマンを選ぶところが渋い。

そして地味に面白い。通り過ぎて5分くらいしてから、ついニヤニヤ笑ってしまった。

だーれも通らない道。一日中、道路の真ん中で横になっていても、車に轢かれることはないだろう。そんな気がしてくる。

実際にやると本当に危ないので、おっさんの冗談を真に受けないでもらいたい。

県道を逸れて集落の中の細い道をゆく。ここは標識が頼り。

細い道を下りてゆくと、目の前に吊橋が現れた!なかなか古そうな橋だ。

橋の袂に「三浦の湧水」という水場があった。
どこからパイプで引いてきてくれている。ここはありがたく頂こう。

神納川に架かる船渡橋

かなりなが~い吊橋だ。昔は渡し船で渡ったのだろう。橋の名前で分かる。

下はグレーチングとなっているため、安心して渡ることができる。
木製だったらドキドキものだろう。

 

船渡橋から出店跡まで

橋を渡ったところにある板塀に張り紙がしてあった。

こういうのって地味に嬉しい。

橋を渡ると、山の斜面にある民家の前を横切って三浦峠の登りが始まる。

よし、気を引き締めて行こう。

集落を抜けて森の中に入っても、なおも石垣が続いていた。
すでに廃屋は朽ち果てて石垣だけが残っている。

道沿いにあった木造の建物。
いったいいつの時代のものだろうか。木製の雨戸が閉められていて中のようすは分からない。

急な上り坂の途中にある三十丁の水。

山の斜面からコンコンと湧き出ている。喉ごしスッキリ。いくら飲んでも飽きが来ない。

異様な雰囲気を放つ杉の大木

整然と植林された杉林の中に何本か大木が生えていた。あまりにも立派だから、伐採せずに残しておいたのだろう。

三浦峠に向かって高度を上げてゆく。
高野山を出発してからは、伯母子岳周辺だけ登山者で賑わっていたものの、その他では滅多に人に会うことはなかった。

ちょいとバテ気味のおっさん。アップダウンが地味に体力を奪う。

山の斜面の何箇所か、全て伐採してある箇所があった。
いったい何がしたいのか、分からなかった。

伐採跡地の植林された場所には、鹿避けネットが張られていた。

まるで自分が網に絡め取られてしまったような気がした。

5時前になってようやく三浦峠に到着した。
すでに日は傾き掛けている。
遠目で見ても、ハッキリと東屋があるのが分かった。
とりあえず飯にしよう。腹が減ってこれ以上歩けない。

三浦峠には、このような立派な東屋がある。
林道で簡単に入って来れるためか、未舗装の林道はしっかりと踏み固められている。

東屋はコの字型になっていて、自由度のある作りとなっている。
どう使うかは君次第!

早速、食事の用意を始める。

東屋の奥の道路脇にトイレ(汲み取り式)が設置されている。

トイレには雨水を回収して貯水タンクに貯められるようになっている。
雨水なので飲めませんと表示されている。

確かにあまりキレイな水のようには思えないが、煮沸消毒すれば大丈夫だろう。
この峠から熊野方面に少し下ったところに山水が出ているところがあって水を汲むことができる。

東屋で食事をして休憩していると、珍しくキャンプをしながら熊野古道を歩いている同年代の男性がやって来た。私と同じ野宿スタイルで歩いている人で話がはずんだ。

すでに5時を過ぎていたので、自然な流れで宿泊場所の話になった。私は疲れていたが、車で簡単にアクセスできる場所であったため、三浦峠で泊まるのはあまり乗り気ではなかった。東屋で寝ていると、ヘッドライトに照らされて起こされる恐れがある。それを嫌った私は先へ進むことにした。初日の展望台のこともあったので、人気のない場所で泊まりたかった。彼はこの日、東屋で泊まったのかは知らない。

すでに時間は5時半を過ぎていた。ゆっくりしていると、ねぐらを見つける前に日が暮れてしまう恐れがある。さっさと先に進もう。

参拝者の安全を見守るお地蔵さん

赤い帽子が可愛らしい。

古矢倉(ふるやぐら)跡

熊野めぐりに「下り道よし、三十六丁下れば、茶店二軒あり」、また熊野道中記には「当初一軒矢倉までツマ下り計」と記されており、この辺りの状況を記している。
屋敷跡の西側に天保十年と記された地蔵菩薩座像があり、その前に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石柱がある。
当時の戸数は一軒で、屋号を古矢倉といい茶屋兼旅籠があったが、昭和一〇年には廃屋となった。

古矢倉には恐ろしい伝説がある。昔、古矢倉坊主なる者がいたが、屋敷に釣り天井を仕込み、旅人を殺害して軍資金を作り、大阪の陣に出たといわれている。

十津川村教育委員会

 

これまで歩いたところ、茶屋や旅籠跡は良好なキャンプ地であることが多かったので、地図を見て今日は古矢倉で泊まろうかなと考えていた。実際に来てみると、鬱蒼と茂る森の中で雰囲気があまり良くなかった。そんな時、物騒なことが書いてあった立て看板を見たので、一気に泊まる気が失せてしまった。

糞坊主に殺された死者の亡霊がうろついているような気がしてしまった。

そして次の出店跡にやって来た。すでに6時を過ぎていて、周囲は急速に暗くなり始めていた。
ちょうどタープの張り綱をとる立木があったので、迷わずここで泊まることにした。

すでに三浦峠で夕食を済ませているので、あとは寝るだけだった。

立木の間にジャストフィットしたタープ。
何回か張るうちにタープの大きさの感覚がつかめるようになってきた。

ただ、3×2.3mの寸法は小柄な私にとっては大きすぎた。必要以上に大きいと張れる場所が限られる。タープは適度な大きさにした方が場所を選ばず張りやすいことが分かった。

それにしても、この出店跡。すでに薄暗くなっていたが、周囲の雰囲気はよくて地面は落ち葉でフカフカで快適に眠ることができた。

人気は皆無で朝まで熟睡だったおっさんであった。

 

つづく

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